池上竞马场
池上竞马场(いけがみけいばじょう、Ikegami Racecourse)は、1906年(明治39年)から1910年(明治43年)まで东京府荏原郡池上村の南方(现在の东京都大田区池上?池上駅の南方の一帯)に存在した1周1マイルの竞马场。设置?运営者は东京竞马会。
池上竞马场は、东京?に末期の1906年(明治39年)から1910年(明治43年)までの5年间だけ开设された、1周1マイルの竞马场である。池上竞马场の位置は现在の东京都大田区池上6〜8丁目あたり(池上駅の南方の一帯)になる。池上竞马场では日本人の手によるはじめての马券が発売され、日本竞马の新しい时代である马券黙许时代を切り开いた竞马场。
所有者并びに运営者は东京竞马会であった。东京竞马会は加纳久宜と补佐役の安田伊左卫门が中心となって1906年に设立され、池上竞马场は政府と陆军の支援を受けて开场した。政府は後続の竞马场の模范たるべく、また赌博の弊害を生まぬよう、さらに池上竞马场を上品な竞马场にすべく、観客は绅士?淑女に限るとし、入场料を高额にさせ、东京竞马会は池上竞马场に玉座や高级料理店などを设置した。
竞马は毎年春と秋の2シーズンに各4日间、1日に9〜12レースほどが行われた。竞走马は雑种か马种を特定できない内国産马(日本国内で生まれた马)とサラブレッド系が中心の豪州(オーストラリア)産马(いわゆる)が主体で骑手は东京竞马会が免许を発行した骑手で主に日本人が务めた。池上竞马场以外の竞马场所属马も出场し、一般レースのほかに初期には军马と军人によるレースも行われていた。
池上竞马场は大盛况で东京竞马会は高収益を上げたが、池上竞马场の盛况をみて日本各地に竞马场が乱立して混乱を招いた。1908年(明治41年)に马券は再禁止され、马券の売り上げ収入が无くなった日本の竞马は政府の补助金によって运営される补助金竞马时代に移り、1910年(明治43年)东京竞马会を含む东京周辺の竞马4団体が合同して目黒竞马场に集合し、池上竞马场は廃止された。
明治初期の日本では、横浜の外国人居留地で盛んに竞马が行われ(横浜竞马场)、神戸外国人居留地でも竞马は行われていた(神戸居留地竞马)。また、日本人の手による竞马も东京の招魂社竞马や三田、戸山、上野のほか札幌、函馆、鹿児岛など地方でも行われていた。とくに1884年(明治17年)に开设された上野不忍池竞马は、国家的祭典とも屋外の鹿鸣馆とも位置付けられるものであった。しかし、当时の日本では马券は非合法で、売ることはできず、経営难の为に1892年(明治25年)に上野不忍池竞马は闭锁された。上野に限らず、日本人による竞马场は厳しい経営状况であった。东京では竞马场は1898年(明治31年)までにすべて闭锁され、地方でも函馆、札幌などで有志の努力によって细々と竞马が行われていただけだった。
1906年(明治39年)までの日本の竞马では、横浜竞马场でのみ马券は発売されていたが、それは1899年(明治32年)までは治外法権によって、それ以降も既得権益と外交上の配虑によって马券発売が黙许されていたことによる。ちなみに、横浜竞马を主催する日本レースクラブの会长はイギリス大使の兼任で、日本レースクラブの主力はイギリス人であったため、当时世界最强国だったイギリスの感情を损ねることや、1902年(明治35年)に结ばれた日英同盟に影响を及ぼすことを政府は恐れた。
横浜竞马场以外の日本の竞马がすべて経営难に陥り、东京では竞马が全灭したのと比较して、経営も安定し顺调に开催を続ける横浜竞马场の事例を见れば、竞马の开催?维持に马券発売による利益确保が必须であることは谁の目にも明らかになっていた。
自动车が本格的に普及するまでの军队では骑兵、大炮曳马、辎重车曳马と马は重要な戦力だったが、日清戦争、义和団の乱、日露戦争と日本军が大陆に进出するたびに、日本马の体格の贫弱さと気质の荒さが露呈した。诸外国の军人からは「日本军は马のようなものに乗っている」「日本军の马は家畜ではなく野獣である」などと马鹿にされ、日本军自身も日本马の质の低さに头を抱えた。特に日本にとっての大戦である日露戦争で、日本の马の劣悪さは国运さえ揺るがしかねないものと认识された。
日露戦争中の1904年(明治37年)4月、明治天皇は诸官に马匹の改良を命じた。すぐさま马政を统括する马政局の设置计画が进み、马政の诸计画がなされ、1906年(明治39年)6月には马政局は设置され马政30年计画が推し进められた。その过程で竞马が注目される。
良质な洋种马と繁殖牝马を输入し良马を量産する动机付けには、军马の需要だけでは足りなかったのである。良い马を量産するには马産农家の意欲が必要、马産农家に意欲を出させるには良马の価格を上げ马産で储かることが必要、良马の価格を上げるには高く买う者が必要、良马を高く买える者を作るのは马券発売を伴い利益が望める竞马が最适という论理である。実际に当时の马産地青森?岩手?宫城での马の平均価格は池上竞马以前の1905年(明治38年)には1头が35〜42円だったのに対し、马券黙许时代の最盛期の明治41年には60〜78円に上昇し、马券再禁止後の补助金竞马时代の1909年(明治42年)には39〜70円になっている。
农商务省、陆军、宫内省を中心に马券発売许可への意识が醸成されていく。1905年(明治38年)秋には马券黙许の方针は内定していたと言われている。その背景には横浜竞马场ですでに马券が「黙许」されていた前例も影响している。
马匹の改良を命じた明治天皇の马政勅諚を锦の御旗に、农商务省、陆军、宫内省は马券発売を伴う竞马の开催に突き进むが、马券の赌博性を问题にする司法?内务省はそれに抵抗した。
东京竞马会の马券発売に対して黙许の言质を与える1905年(明治38年)12月の「竞马赌事に関する农商务、陆军、内务、司法四大臣合议书」に内务、司法両次官が注文を付ける。それは「竞马に関する凡ての赌博行为は、黙许することは得ざるは勿论なれど、単に马匹の速度力量技能その他に関する知识の优劣を争う为め、其确保手段として多少の金銭等を赌する如きは刑法に所谓赌戯赌奕の行为にあらざるものと信ぜらるるを以て、其趣意を内达すること差支えなし」という付笺として反映された。それはつまり、「马券は马匹改良の目的のために马匹监定技术向上の手段として认めるのであって、马券が节度を越えて赌博行为となったらいつでも马券を再禁止できる」というレトリックを盛り込んだのである。実际、発売された马券は甚だしく赌博性を発挥し、わずか2年余りで马券は再禁止されてしまった。
马券を売りたい势力と、赌博を何が何でも禁止したい势力の微妙な折り合いの上に、马券は公认ではなく黙许されることになった。また、横浜竞马场を马券黙许の前例とした马券推进侧に対して、司法侧は过去の不平等条约?治外法権の好ましくない残滓である横浜竞马场の特别扱いも、他の竞马を同格にすることで特别扱いではなくなるとの思惑も络んでいたと考えられている。実际に1908年(明治41年)の马券の再禁止は横浜竞马场も含まれ、横浜竞马场は不平等条约?治外法権以来の既得権益を失った。
农商务省、陆军、宫内省を中心に醸成された马券発売黙许の雰囲気のなかで子爵加纳久宜がそれを実现させ、加纳と陆军から派遣されてきた安田伊左卫门らを中心に池上竞马场が开场された。安田は後に日本竞马界の父と呼ばれる存在になり、现在も东京竞马场で行われる重赏竞走安田记念にその名を残している。
加纳久宜は元上総一宫藩主で、全国农事会会长やかつて竞马が盛んで马産地だった鹿児岛の知事を経験していた。加纳は时代に鹿児岛竞马を盛り上げ、鹿児岛県の马産を振兴させた実绩を持つ。その経験から加纳は马匹の改良には竞马が最善の手段であるとの信念を持っていた。信念に基づき加纳はすでに1904年(明治37年)ごろから东京での竞马开催を政府に热心に働きかけている。加纳は最初は马匹改良の趣旨に賛同する会员から一人500円づつ会费を集めて竞马を催す计画だったが、当时の500円は大金であったため、马匹改良の趣旨に賛同する者でさえ出资には踌躇した。そのため、加纳は马券発売を愿い出、会员からは利益が出たら配当するということで、一口500円の出资を募り、竞马场の开设费を集めた。
日露戦争を机に高まった马匹改良の声を受け、また政府内でも马券黙许の雰囲気が高まる中で、加纳が计画する东京竞马会は政府から内意を受けた。内意は「政府は赌金(马券)を黙许する方针であること」と「全国に8か所の竞马场を设置する计画で、东京に置く竞马场はその模范たるべし」、そのためには「多少の金銭援助も行う」とのことであった。この内意は1905年(明治38年)12月である。この内意を东京竞马会が受けたのは加纳の热意の赐物であるとされている。
加纳は竞马场地を东京からほど近く、当时竞马が盛んだった横浜からも通える池上に决め、竞马运営団体名を东京竞马会と定めた。竞马の开催を1906年(明治39年)2月公表し、政府は同年4月これを许可する。
池上竞马场を运営する东京竞马会の设立趣意书では、発起人は加纳久宜、賛同者は元陆军中将で男爵の大蔵平三、外务大臣等を歴任し东京竞马会の设立直前にはだった、明治天皇の侍従で马政に大きくかかわった藤波言忠、农商务省农务局长だった酒匂常明、诸大臣を歴任し、东京竞马会の设立直前には农商务大臣を务め後に総理大臣になる清浦奎吾となっており、东京竞马会は陆军?农商务省?宫内省ら政府の支援の元に设立されたことがうかがえる。
东京竞马会会长にはそのまま加纳が就任し、他の理事は东京府知事尾崎行雄、安田伊左卫门、松平容大、木村利右卫门、、千家尊福、、や、S?アイザックスなど日本レースクラブの外国人达が务めた(东京府知事尾崎行雄はすぐに理事を园田実徳に交代した)。
加纳を陆军から派遣された安田が补佐し竞马场建设は进んでいく。
コースの设计やルール、马券规则、竞马番组の作成、施设の维持管理などは先行する横浜竞马场に仿った。池上竞马场に続く日本の竞马场も多くは横浜を模范としたので、现在も中央竞马には横浜竞马场と同じく右回りの竞马场が多い。ことに池上竞马场は横浜竞马场の影响を强く受けている。
池上の竞马场予定地一帯では池上本门寺が大地主であった。このため加纳らは池上本门寺と交渉し、竞马场予定地一帯を1反歩(991.736平方メートル)あたり1石(米约150キログラム)の借地料で30年の借用契约を结び、また池上本门寺以外の地主や农家の中で土地の借用に応じない者に対しては本门寺から交渉させてこれを买収した。しかし後日、池上本门寺の土地として东京竞马会が借り受けた土地の中に个人所有地が未买収のまま残っていることが発覚し、トラブルになりかけている。このことは1910年(明治43年)、东京竞马会が池上を引き払って目黒に统一される一因ともなっている。池上本门寺前から竞马场までは専用道路を设け、また大森から池上本门寺前までの道路(现在の)は东京府が改修している。
また、1905年(明治38年)までの日本では横浜竞马场以外では函馆や马産地などで细々との竞马が行われていただけなので竞走马の数が少なかった。また、政府が马券発売を伴った竞马场新设を认めたのは马匹改良と马産奨励の为である。このため、竞马场を运営する竞马会は毎年一定数のクジ引き新马の购入が义务とされた。池上竞马场を运営する东京竞马会は1906年(明治39年)秋に17,249円で新马を41头购入したのを始め、毎期新马を购入し、クジ引きで会员に配布している。会员に贩売する际、内国産马では抽签马购入代金の3割を东京竞马会が补助し会员が马を购入しやすくしている(豪州産马の购入にあたっては补助があったとの记载はない。)。
东京竞马会では、池上竞马场の発足前に、竞走に惯れた自前の马を揃えようとした。大江によれば、东京竞马会では池上竞马场発足前に52头の马を持ち、1906年(明治39年)11月の日本レースクラブの横浜竞马场秋场所に多数の马を出场させている。日本レースクラブの方でも池上开场へのご祝仪として、横浜竞马场のレースとして东京竞马场抽签内国马竞走番组などを行っていた。いわば东京竞马会は池上竞马の予行演习を横浜竞马场で行い、日本レースクラブも积极的に协力したのである。その後も日本レースクラブは池上竞马赌场场运営に诸々の协力をしている。その後东京竞马会は日本レースクラブのレースに赏金を寄付している。
东京竞马会抽签马购入数は以下のようになっている。このほかに竞马会会员の任意购入(呼马)があり、日本レースクラブの会员も持ち马を池上に出场させている。
JRAの资料によると、池上竞马初日までに东京竞马会は豪州马16头、内国産马36头计52头を购入した。东京竞马会の1906年度(明治39年度)事业概况报告书では、抽签马购入数を豪州马10头、内国産马31头の计41头としているが、その差については不明である华润娱乐注册。
これら池上竞马场の竞走马の马种についてはほとんどは不明である。内国産抽签新马のみは马种の记载があるがすべて雑种马である。
池上竞马场以外の竞马场に所属する马も出场した。たとえば池上竞马场内国産1マイルのコースレコードを持つシノリ(サラ系)、1と1/8マイルの记録を持つハナゾノ(トロッター系)は目黒所属など。
骑手は东京竞马会として登録免状を与えた37名が务めた。目黒などほかの竞马场所属马の骑手はそれぞれの厩舎の骑手が务めている。
1906年(明治39年)4月に竞马场设置の许可を得た东京竞马会は、直ちに池上竞马场の建设に取り挂かり、1906年(明治39年)11月完成した。
池上竞马场は水田地帯に作ったので、走路の内外を掘って出た土をコース上に盛って日々ローラーを引いて均し固めて走路を整备した。掘った迹は濠になる。内濠は幅7间(约12.7メートル)、外濠は幅2间(3.6メートル)である。
走路はコース长1マイル(1609メートル)、幅18间半(约33.6メートル)で総工费は13万5千円(1906年(明治39年)の日本の国家予算は约5亿円)主な建筑物は玉座や皇族席、特别会员席、1等観覧席を设けた1号馆と2等観覧席の2号馆。厩舎は13栋で収容能力は180头、観客席は1等2等合わせて6000人ほどの収容人数だったという。
建物は开场後にも増筑され、1908年(明治41年)には马见所は1〜3号馆、厩舎21栋になっている。开场时はパドックは设けられていなかったともいうが、鞍场と称する出场准备所で马を観察することはできた。1908年(明治41年)5月に马政局长官通达で下见所(パドック)の设置が必须となり、出走前の牵运动が义务になった。加纳は明治天皇の临席を予定してメインスタンドである1号馆に玉座を设けた。
东侧の1号馆は1阶が208坪(约688m平方メートル)、2阶は197坪(约651平方メートル)、3阶は111坪(约367m平方メートル)、3阶中央が玉座、3阶左右は特别席、2阶が1等席及び新闻记者席、1阶には饮食店や事务所が入る。西侧2号馆は二等客の马见所で阶下は284坪(约939m平方メートル)、2阶2等席は145坪(约479m平方メートル)。设计は东京美术学校教授の古宇田实で、土台はコンクリート。建物は石材や鉄骨も下层の一部に使われているが主に木造である。2号馆の西に建てられた3号馆も二等席である。走路は开场时には土のコースだったが、1907年(明治40年)秋场所からはコースには芝も植えられた。
马券売り场(ガラ场)は2号馆1阶に设けられ、2号馆1阶东半分は1等席(1号馆)の客用の马券売り场、2号馆1阶西半分は2等席(2号馆)用の马券売り场である。いずれの売り场でも、银行の窓口のような窓口が内外両侧に30〜40も并び、アナ马券売り场は外侧、ガラ马券売り场は内侧に并んでいた(马券の种类は後の马券节を参照)。
饮食店も场内に出店した。饮食店は1号馆1阶に中央亭、华族会馆といずれも高级料理屋が出店し、2号馆の域内にもテントを张り花月花坛や八幡楼、ビアホール(恵比寿、札幌、东京)などが出店した。中央亭は洋食を出し、华族会馆は料理もビールも1品40銭だったという。2号馆侧の花月花坛の弁当は1円。当时、巡査の月给が15円、映画馆の入场料は15銭の时代である。场内の饮食店は质は良いがあまりに高価なため新闻にも苦言を呈された。场外ではあるが竞马场からほど近い池上本门寺の门前町に轩を并べる露店や饮食店も竞马场の客でにぎわったという。场外ではあるが外栅の东北侧に贷桟敷も设けている。
池上竞马场は11月24日に开催を迎えた。鉄道は竞马に合わせて临时列车を走らせ、満员の観客席には女性客も2〜3割を占めたという。场内では音楽队が演奏した。
池上竞马の初开催には东伏见宫の御使や陆军の将官たちが姿を见せ、2日目にも多数の顕官が访れ、3日目は天皇の名代で伏见宫、4日目には北白川宫、久迩宫、东久迩宫、朝香宫の各宫のほか寺内正毅陆军大臣、松冈康毅农商务大臣、アメリカ大使など多数の来宾があった。
马券発売を伴う大规模な竞马场を运営する経験を持っていたのは横浜竞马场を运営する日本レースクラブだけだったので、东京竞马会/池上竞马场では日本レースクラブの支援を受けた。池上竞马场の审判や検量、発马、検定などの竞走役员はそれぞれの系ごとに横浜竞马场から駆けつけてきた外国人担当者が1-2人ずつ加わり指导している。横浜で経験を积んでいた外国人は厳密公平であったという。スターターのトレドウェーは発马やり直しの「カムバック」の叫び声で人気を集め「カムバック先生」とあだ名されたという。
马场は1906年(明治39年)秋の初开催から1907年(明治40年)春と临时场所では土、スタートはスターターが振る赤旗を合図だったが、1907年(明治40年)秋の开催からは芝を植え、または発马机も取り付けた。発马机がついたので、「カムバック先生」とあだ名されたスターターのトレドウェーの「カムバック」の叫び声も闻かれなくなったとのこと。
池上の初回开催では、竞马场运営を知っている日本人が少なく、门番や马券の発売事务まで日本レースクラブの外国人の手を借りている。1日に最大12レースで数万枚の马券を扱う为に100人近くの人を雇い、马券业务を请け负った外国人は手数料として纯益の3割を取ったという。
池上竞马场の时代は池上线も目蒲线もバスもタクシーもまだなかった时代であり、池上竞马场までの交通は大森駅からの人力车が主だった。大森駅から池上竞马场までの人力车の协定料金は20〜25銭だったが、人力车は十分な台数がそろわず、人力车に乗れず仕方なく大森駅から池上竞马场までの3キロあまりを歩いた者も多数いたとのこと。贵顕贵妇人には东京から马车を仕立てた者もいたが、马车を用意せず大森駅から人力车を予定した子爵、伯爵でも人力车に乗れずに歩いたという。池上竞马开业を好意的に书いている当日の新闻も観客の交通の便については苦言を呈した。
竞马は予想以上の人気で东京竞马会の役员や系员も忙しく、会长の加纳も忙しく働き、会长自ら観客の纷失品の世话まで行ったという。安田伊左卫门は马场取缔役(进行役)を务めたが、横浜竞马场に仿って赤い服を着させられた。明治の男で军人だった安田は真っ赤な服を着ることを耻ずかしがり大変に困惑したが、竞马が始まってみるとあまりの忙しさに耻ずかしさも忘れたという。
池上竞马场は横浜竞马场を模范とし、後に続く东京周辺の新设竞马场は池上を模范とし、さらに东京以外の竞马场は东京周辺の竞马场を模范とした。
马券発売にあたり政府および东京竞马会が心配したのは马券=赌博によって风纪が乱れガラが悪い空间が生まれることである。そのため池上竞马场では竞马を上品な场にするために観客を选别しようと入场料?马券を高额にした。ドレスコード(服装が乱れている者は入场させない方策)も设けた。ことに一等席では正装を求めた。イラストで観客が皆、正装しているのはそのためである。合わせて系员の服装にも気を配らせた。15歳未満の子供は入场を禁止した。池上竞马场では当初の入场料は1等席が3円、2等席を2円とし、马券も1枚5円からにした(1909年(明治42年)の映画馆の入场料が15銭の时代である)。しかし马券の赌博性が问题になり、政府はさらに観客の选别を进めようと1908年(明治41年)2月、すべての竞马场で1等入场料を5円、2等入场料を3円に値上げさせ、1枚5円だったアナ马券も1枚10円に値上げを命じた。しかしながら结局は风纪は乱れいかがわしい空间が生まれてしまい、马券は再禁止されてしまった。
记念すべき池上竞马场の第一回开催は1906年(明治39年)11月24日、25日と12月1日、2日の4日间で最初から马券を発売してレースは行われた。それ以降も1907年(明治40年)の春?秋と临时开催、1908年(明治41年)の春の5回马券発売を伴う竞马を行う。池上竞马では各シーズン、2周连続各土日の计4日间ずつ开催した(马券黙许时代の竞马场は横浜竞马场に仿ってどこも年2回のシーズン。各シーズン4日开催)。
马券が再禁止された1908年(明治41年)秋は予定通り开催できずに竞马としては遅い时期の12月に3日间と短缩されて开催されている。1909年(明治42年)春の池上竞马は开催されず、1908年(明治41年)秋と1909年(明治42年)秋には马券発売は无しで开催され、竞马会の重役は报酬を辞退している。
1906年(明治39年)当时、横浜竞马场以外では函馆などで细々と竞马が行われていただけなので、池上竞马场が発足してすぐには质の高い竞走马を十分に确保出来ず池上竞马の竞走马の质は极めて雑多だったという。番组编成も不惯れなため适切な番组が组めたとも言えず、竞走は番狂わせが多く、横浜と比较して高配当のレースが多かったという。马券売り上げを増やすために1日に9〜10レースも组み、そのため马は不足し多くの马が连日出走した。
池上竞马开设をバックアップした陆军は、竞马场开设前に试乗してコースの出来上がりを确かめ、池上竞马に军马?骑兵将校を参加させている。陆军は优秀な骑炮兵科士官を选び军服姿も凛々しく勇ましい竞马を行ったという。竞马に出场した部队は军马补充部、近卫骑兵连队、骑兵第一连队、骑兵第十三连队、野戦炮兵第十三连队、骑兵学校などである。军马?军人は一般の竞走に参加した訳ではなく、军马?军人の竞走が番外レースとして组まれている。
军马?军人のレースでは赏金は出さず、そのかわり胜利者には锁付金时计や三つ组の金盃などが赠られた。2位の者にも金时计や金盃など、3位の者にも金盃や银盃などが赠られている。陆军大臣が寄赠した刀剣が赏品に出されることもあった。赏金は出ないものの队や自分の名誉がかかっているので参加した将校も真剣であったという。
军马のレースは1场所ごとに4レース(临时场所では3レース)行い、毎日1レースで、参加する部队の関系者も私服で大势访れ自分の队の出场马を応援している。一般レースと同じく马券も発売されたという。しかしながら、竞马の赌博性が如実になっていくにつれ、军内部でも竞马への批判の声が出てきたところに、近卫骑兵连队と骑兵第一连队のあいだで竞走の胜败についてトラブルが発生した。それを机に军人が骑乗する军马の竞马は廃止された。
池上竞马场のレースでは距离は短いものでは5/8マイル(约1000メートル)から长いレースでは1と1/2マイル(约2400メートル)で行われ、平均すると1907年(明治40年)秋では1マイル弱、1907年(明治40年)秋からは1マイルを若干上回っている。1908年(明治41年)1月には马政局から新马戦と未胜利戦は3/4マイル以上、新马戦优胜戦とそれ以外では1マイル以上の距离にするように指示があった
池上竞马场では马主には马主服を登録させ、骑手は马主服の着用を义务とした。马主服登録は现代の日本中央竞马会と同じである。
抽签马(新马)
抽签马
抽签马(新马)
抽签马
临时は东京勧业博覧会记念竞马
日数
入场者
入场者
记念すべき开场初日の第一レースは豪州産新马の竞走で13头立て、距离は3/4マイル(约1,200メートル)1等赏金350円で行われ胜ち时计は1分32秒62である。初日の人気レースは第4竞走の内国産马のレースで7头立てで行われ距离は3/4マイル1着赏金は400円胜ち时计は1分35秒47である(当时公务员の初任给が50円、巡査の月给が15円、酒一升が60銭だった时代である)。
斤量(负担重量)の単位はポンド。
池上竞马场の初回开催では马券の発売には枚数、金额、払い戻し额には一切制限がくわえられなかったという。
池上竞马场の初开催?1906年(明治39年)秋场所では、横浜竞马场とおなじく马券は「ガラ」と「アナ」の2种类が発売された。
ガラは正式にはロッタリー方式、あるいはスィープステークス方式马券と言い、马券を买った时点では自分の马券がどの马の物かわからない马券である。马券购入後にくじ引きで自分の马券の番号に対応する马が决まるのである。つまり、宝くじと马券を合わせたような马券と言われる。ガラは马を研究?検讨して买う马券ではなく运任せであるので政府が认めた马匹改良の手段あるいは马匹の监定投票という趣旨からはまったく外れる马券である。しかもきわめて射幸性?赌博性が高いとして池上竞马场の初回开催一回のみで以後は禁止されてしまう。これは池上ばかりでなくすでにガラ马券が缲り返し発売されていた横浜でも禁止となる。ガラ马券は1枚10円で発売された。
もう一つは「アナ」と呼ばれたパリミュチュエル方式で现代の马券と同じ方式である。ただし现代の马券のように连胜式や复胜式はなく単胜式のみである。アナ马券は最初1枚5円で発売され後に1枚10円に値上げされた。アナ马券は竞马黙许时代の全竞马场で采用されていた马券である。
马券発売に际し政府が恐れたのは马券の赌博性である。そのため胡乱な者を排除しようと入场料を高额にし、马券も高额にして、さらに服装もきちんとしているものしか入场させないようにして谁もがおいそれとは参加できない方策を取った。ガラ马券は1枚10円、アナ马券は1枚5円だが当时公务员の初任给が50円、巡査の月给が15円、酒一升が60銭だった时代である。それでも大阪から来たというある観客は3000円もの马券を买い、またから来た団体は1人当たり300-500円も使うこともあったという。
庶民には马券は高価だったが、しかし、庶民から少额ずつ集めて代表して马券を购入する宰取という商売が现れた。宰取の手数料は1割である。宰取は事前に马や骑手を调べておいて情报提供し、庶民はその情报で赌ける马を决めた。长屋住まいの女房や商家の手代なども宰取の客になった。宰取によるノミ行为も行われていたという。そうして金持ちばかりでなく庶民にも竞马は広まっていった。
池上竞马场の初日、1906年(明治39年)秋の第一日目は招待客约1500人、一等客240人、2等客750人とその後の池上竞马からするとやや少な目の観客数でのスタートだったが、それでもアナ马券が13,362枚売れ売り上げは66,810円、ガラ马券は4,980枚で49,800円売り、合计で116,790円の売り上げだった。売り上げに対して主催者取り分は1割なので、初日1日で东京竞马会は马券から11,679円の利益とその他にも入场料収入があった计算になる。1906年(明治39年)秋场所4日间では新闻报道では85万円、安田伊左卫门の回想では96万円の马券売り上げだったといい、赏金18,880円など経费を差し引いても大きな利益が出たという。
その後の开催では売り上げはますます増え、1908年(明治41年)春场所では4日间の开催で202万円あまりの马券を売り、単纯计算で东京竞马会には20万円以上の粗利益が入り、他に入场料収入も2万円以上あった。竞马赏金4万円余りや経费を引いても、4日间の开催1场所だけで池上竞马场の総工费13万5千円に见合う利益が出たものと思われる。
日数
金额
1人あたり
#日本中央竞马会1967のp. 126には池上竞马初开催の4日间で売上700〜800万、倶楽部の収入は7〜80万とあるが明らかに桁の间违い。同じ书のp. 188では96万円となっており、また当时のマスコミも85万円、安田伊左卫门の文章でも96万円となっている。
明治天皇は马に関心が深く、また1904年(明治37年)の马政勅諚が池上竞马や马券発売黙许のきっかけとなったが、池上竞马场にも明治天皇は関心を持っている。加纳は天皇の来场を期待して马见所には玉座を设けた。明治天皇自身の池上竞马観覧こそはなかったものの名代を派遣されて池上竞马の様子を闻き、また毎回皇族を派遣している。
明治天皇は竞马の目的は马の见た目の美しさを求めるものではなく、马の速力など马の能力の优劣を竞うべしとの考えで、池上竞马の成绩表(タイム?斤量などの比较データ)を取り寄せた。1906年(明治39年)11月、加纳は宫内大臣に「御赏典」の下赐を要望した。天皇は池上竞马场の初开催から御赏典を下赐している。天皇の御赏典は池上竞马场と横浜竞马场では各开催シーズンごとに下赐され、帝室御赏典竞走と名付けられたこの竞走は後の天皇赏へとつながっていった。
今日の天皇赏の前身にあたる帝室御赏典竞走は池上竞马场では1906年(明治39年)秋、1907年(明治40年)春、秋、1908年(明治41年)春、秋、1909年(明治42年)秋に行われ、それぞれ距离は1マイル(1609メートル)内国産马限定のレースとして行われた(横浜竞马场や他の竞马场でも帝室御赏典竞走は行われている)。
池上での初となる1906年(明治39年)秋3日目の帝室御赏典竞走は内国産马第1レースで7头立て。1着は12歳の雑种骟马のカツラ(马主槙田吉一郎)が胜ち、天皇下赐の银制花盛鉢と赏金400円を得た。1マイルの胜ち时计は2分7秒35。
1907年(明治40年)春の池上竞马帝室御赏典竞走は3日目の内国産马第2レースで6歳牡马のハナゾノ(马主园田実徳)が1分56秒63で胜利し、同年の秋2日目第8竞走5头立てではホウエン(马主园田実徳)が2分04秒の时计で胜利し、御赏典を获得、1908年(明治41年)春の池上竞马帝室御赏典竞走は2日目の内国産马第1レースで7歳牡马のスイテン(马主安田伊左卫门)が1分52秒71で胜った。1908年(明治41年)秋は2日目内国産马第1レースが帝室御赏典竞走で胜ち马はフクゾノ、时计は1分58秒48。1909年(明治42年)秋は2日目に行われ、ウラカワが胜っている。(明治の马名は汉字で表记されることもあったが、ここではカタカナで统一した)
※本节では、马の年齢の表记に関して「旧表记(2000年以前の表记方法)」により记述している。このため本节で「7歳」といった场合、2001年以降の表记では「6歳」に相当する。详しくは马齢#日本における马齢表记を参照。
1905年(明治38年)12月の东京竞马会への马券黙许の内达により、1906年(明治39年)11月马券発売を伴った第一回池上竞马が开催されるが、これより先、1906年(明治39年)4月、马券発売に肯定的な雰囲気が醸成されるなかで関八州地区主催で上野不忍池で関八州竞马大会が开催された(非公认の竞马である)。この时点では马券は黙许されておらず、関八州竞马大会では公式には马券は発売されていないが、実际には闇での赌けは盛んにおこなわれていたという。また、関八州竞马大会が行われた上野には庶民が多く诘めかけ大変な盛况だったという。
このほかにも闇で竞马を行う者が日本各地で続出し、これを见て1906年(明治39年)10月と12月、马政局は[许可された法人にあらざる竞马会の取缔通达]を発し、马券発売黙许する公益法人の规则を明治39年12月10日阁令第十号で定めた。
政府が定めた马券発売を黙许される公益法人の认可要件として竞马开催に必要な建物と1マイル以上の専用の马场を持つこと、毎年2回以上竞马を行い、竞走马は明け4歳以上とし、竞马会は毎年新马を购入することと剰余金の一部を马産奨励に使うことを义务とした、马券は横浜で既に采用されている方法(ガラ?アナ)以外の马券は禁止する、などとされた。
池上竞马场を运営する东京竞马会に马券発売を伴う竞马の开催が许可されたのを见て、川崎でも竞马会设立の动きがあり、1906年(明治39年)9月には川崎竞马场を予定する京浜竞马倶楽部も许可を受けた。
明治39年12月10日阁令第十号での马券黙许法人の规定や、1906年(明治39年)10月および12月の马政局长官の「许可された法人以外の马券禁止通达」(里返せば许可された法人の马券発売黙许)および池上竞马第一回の成功を见て、全国に公益法人设立の动きが加速する。
池上竞马を见て马券発売を伴う竞马が利益の上がることだと明らかになり、全国で1907年(明治40年)初めで70以上、1908年(明治41年)初めまでに200以上もの団体が竞马开催を目的とした法人许可申请を出す。
先行して马券発売を黙许された横浜、池上に加え、池上に続いて许可を得た川崎、既に竞马场施设を持っていた函馆、さらには目黒、板桥、札幌、新泻、松戸、藤枝、京都、鸣尾(鸣尾东浜)、関西(鸣尾西浜)、小仓、宫崎の各地の竞马会が竞马法人设立许可を得て竞马场を新设した。马券黙许时代にはこれら15の竞马场が许可を得た。
开催顺としては 1906年(明治39年)秋に横浜、池上、1907年(明治40年)春に川崎、松戸、1907年(明治40年)秋に目黒、函馆、関西(鸣尾西浜)、宫崎、1908年(明治41年)春に札幌、板桥、鸣尾(鸣尾东浜)、京都、小仓、新泻で竞马は开催された。(藤枝は开设が马券再禁止後になってしまったので马券発売を伴う竞马は行っていない)。
横浜と池上以外の13か所の竞马场はトンネル会社を作って利益确保に奔走した。公益法人である竞马会は表向きは利益を自由にできないので、何々马匹改良会社と言った名称の竞马场所有会社をつくり、竞马実施にあたって高额な竞马场赁借料を払うという形で自由に処分できる利益を得たわけである。もちろん各地の竞马会と何々马匹改良会社と言った名称の竞马场所有会社の役员は重复している。池上竞马场を运営する东京竞马会と横浜竞马场を运営する日本レース倶楽部は後続の竞马场が金储けに走り秩序が乱されていることに悬念し当局に厳しい取り缔まりを求めた。
明治の日本では一切の赌博は禁止され、わずかに横浜でのみ例外的に马券が売られている状况で、一気に全国で无制限の马券を伴う竞马が开催され出したのである。それまでは非合法なものでしかなかった赌博を公然と行えるようになった日本人は一気に赌博の「兴奋と热狂」につつまれていった。仕事を放りだして竞马场に通い诘める者が続出し、身の丈を超えて多额の马券を买って破産し娘を売る者、店の金に手を付ける者、泥棒に及ぶ者、竞马で财産を失って首を吊る者が现れた。
竞马场侧も金储けに走り、粗雑な运営でクレームが続出し観客が暴れる騒动が频発する。审判や発马なども不手际が多く観客の騒ぎになることもあり、竞走で八百长すら行われ、それを嗅ぎ取った観客がやはり暴れる、といった騒ぎが続出した。特に営利目的が露骨で粗末な设备と运営が行われた松戸竞马场では竞马场侧が配当をごまかすなどの不正な行为を行い、抗议する観客のクレームをやくざを雇って封杀するなどということにまで及んだ。鸣尾では竞马会の内纷や诈欺などが発覚した。そもそも竞马场の许可自体にも赠収贿の噂すら立った。各竞马场の模范たるべしと期待された池上竞马场でも払い戻しにおける纷争が起きている。政府は场当たり的に様々な规制を行うが効果なく、大手新闻を始めマスコミは一斉に竞马を攻撃し、マスコミの攻撃は竞马场のみならず马券を黙许した政府にも及んだ。加纳や一部の政治家?官僚は马匹改良のために马券を伴う竞马开催は必要だと诉えるが马券への世论の风当たりは强く、1908年(明治41年)10月、政府は马券を禁止した。
马券の禁止に东京竞马会を含む各地の竞马会は动揺し开催を延期した。延期して开催された池上竞马场の1908年(明治41年)秋场所は竞马としては遅い时期の12月18,19,20に3日间と日程も短缩して行われた。马券を発売しない竞马は観客からそっぽを向かれ、秋场所初日は1等入场券が5枚、2等入场券が7枚しか売れず、招待客を入れても竞马场は闲古鸟が鸣いた。马券収入が无くなったので赏金额も前场所の42,000円余りから2500円へと激减した。
马券が禁止された直後の1908年(明治41年)秋の池上竞马には、政府から补助金が25,000円が出された、他、各地の竞马会にも补助金は出されたが、竞马の运営に25,000円程度では到底足りる金额ではなかった。そのため全国の竞马関系者は一斉に马券复活运动に立ち上がる。补助金による竞马ではなく马券を売る竞马を求める各竞马会は明治42年春场所は开催しなかった。国会が开かれていた东京に全国から竞马関系者が集合し、政府に马券复活の请愿活动を行う。この运动は激しくついに1909年(明治42年)春の衆议院では议员立法で提出された马券を认める法案が通过した。しかし、政府と贵族院の抵抗は强く贵族院の反対によって结局は马券禁止は覆ることはなかった。この後の日本竞马は政府の补助金によって行われる补助金竞马时代に移行する(马券発売が认められるのは1923年(大正12年)の竞马法成立を待たなければならなかった)。
1909年(明治42年)春の开催をあきらめて行った马券复活运动は実らず、补助金竞马时代に移行した同年秋に3日间开催したのが、结果的には池上竞马场の最终回となった。
竞马が世论の指弾の的になり、政府は马券を禁止するだけではなく、同一地方赌场に复数の竞马団体や利益の抜け穴となるトンネル会社の存在を认めない方针をとった。
1909年(明治42年)春、政府は东京竞马会(池上)、日本竞马会(目黒)、京浜竞马倶楽部(川崎)、东京ジョッケー倶楽部(板桥)、総武竞马会(松戸)の5者を呼び合同を促した。総武竞马会(松戸)のみはこれに従わなかったが、総武竞马会を除く4つの竞马会は1909年(明治42年)に合同する仮契约を结んだ。合同して新设される东京竞马倶楽部は各竞马会の资産を総额160万円あまりで购入し、政府は东京竞马倶楽部に20年间毎年8万円あまりの补助金を交付することに决めた。
东京竞马会(池上)、日本竞马会(目黒)、京浜竞马倶楽部(川崎)赌场、东京ジョッケー倶楽部(板桥)の4つが合同して出来た东京竞马倶楽部は、1910年(明治43年)6月、地形や交通の便から目黒竞马场を使用することに决め、池上竞马场は廃止された。
池上竞马场の造成に伴って周辺の道路の拡幅など交通の整备も行われた。池上竞马场闭锁後の迹地一帯はのちに分譲され、现在は住宅地となっている。その分譲地の一角には竞马场にちなんで「徳持ポニー公园」が设けられており、その敷地にはかつての池上竞马场についてのモニュメントが设置されている。